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I AMの声 — 内なる自己との対話

静寂の門

  • 7月18日
  • 読了時間: 4分

私たちは人生のあらゆる場面で「本当の安心がほしい」「心からの平安の中で生きたい」と願い、そのための道を探し求めがちです。


けれど、いざ目の前にどこまでも澄み切った静けさが現れたとき、私たちの内側で、ごく微細な緊張がそっと動き出すことがあります。


それはまるで、目の前に開かれた美しい静寂の門をくぐることを、ほんの少し躊躇してしまうかのような、名前のない小さな抵抗です。


なぜ、私たちはあんなに望んでいたはずの平安を、いざというときに拒んでしまうのでしょうか。


その奥底にあるのは、深い安らぎに完全に身を委ねてしまったら、これまで懸命に守ってきた「自分」という個別の輪郭が、あとかたもなく溶け去ってしまうのではないかという、純粋ゆえの恐れです。


この恐れは、日常の中では「もっともらしい理由」の衣を纏って現れます。


たとえば、誰かを「許したくない」という強い握りしめ。相手を責め、自分が正しいという立場に立ち続けている方が、傷ついた自分という存在をはっきりと主張できるような気がするのです。


あるいは、「この問題を解決しなければ」という執着。


心配事や不平不満を抱えて忙しく思い悩んでいる方が、何かを乗り越えようと努力している実感が得られ、もしその問題をすべて手放して平安に入ってしまえば、自分の存在価値が失われてしまうように思えてしまう。


私たちは、「何かと戦っている自分」や「問題を克服しようと修復を試みる自分」でいるときの方が、皮肉にも「私はここにいる」という実感を強く得やすいのです。


だからこそ、自我にとって平安を受け入れることは、これまで紡いできた“私という物語”の終わりを迎えるかのように見えてしまいます。


完全に脱力して世界にすべてを任せることを、どこか危険なことのように錯覚してしまうのです。


私自身、この微細な抵抗に直面することがあります。


真理という無言の広大さを前にしたとき、「どうすれば誤解なく伝えられるだろうか」と言葉を慎重に整えようとしたり、「まだ自分は伝えるには何かが足りないのではないか」と小さな遠慮を覚えたりすることがあります。


けれど、それさえも「救い手」としての役割の重荷を自らに課し、大いなる流れを自らの手でコントロールしようとする、愛おしい力みに過ぎませんでした。


一なる自己(I AM)の視点に立てば、私たちは何かを成し遂げて価値を証明する必要など、最初から一ミリもありません。


宇宙の健やかな営みのように、ただここに在るだけで、あなたの存在はすでに完全に満たされています。


内側で巻き起こる心配や発信の先延ばし、予定を詰め込みすぎて余白を忘れてしまう時間は、あなたが間違った道にいるという罰ではなく、ただ「そろそろ大いなる流れに降参しませんか」という、内なる真実からの優しいサインなのです。


ですから、もし今日もあなたの内側に、静けさを恐れるような微細な詰まりが見つかったとしても、それを無理に改善しようと争わないでください。


その抵抗の奥には、「真理を汚したくない」「世界を傷つけたくない」という、どこまでも真っ直ぐで不器用な、愛を守ろうとする優しさが宿っています。


その健気な動機に気づき、ただそっと見つめてあげるだけでいいのです。


「すべてを大いなる意識に任せてしまっても、私は何一つ失われない」


その真実にただくつろぐとき、あなたを縛っていた最後の結び目は自然に解け、最初からあなたの内に満ち満ちていた、生命の温かな呼吸が再び世界を潤し始めます。


答える人であることをやめ、ただすべてを迎え入れる透明な器として佇むとき、行動よりもあなたの“存在そのもの”が、静かな灯台となって周囲を照らしていくのです。


平安とは、どこか遠くへ到達したあとに得られる報酬ではありません。


それは、あなたが個別の主張を手放したその足元に、最初から豊かに広がっている、終わりなき我が家そのものなのです。






── 凛風リュウジ

すべてを委ねても何も失われないと、静かに思い出そうとしているあなたへ

 
 
 

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