他者という響き合う鏡
- 6月27日
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私たちは日常の中で、自分が意識している以上に「他者」という存在から多くのことを受け取っています。
出会う人の何気ない態度、言葉、沈黙、そして時にはその人の佇まいそのものが、私たちに何かをまっすぐに映し出してくれる鏡のようです。
かつての私は、他者からの評価や言葉を「自分自身の価値を測るもの」として受け取り、そのたびに心を激しく揺らしていました。
褒められれば高揚し、否定されれば深く縮こまる。
相手をともに歩む友というよりは、自分を値踏みする裁判官のように見ていたのです。
けれど、大いなる一なる自己(I AM)の静けさに立ち返って見つめるとき、そのすべての見え方が優しく覆ります。
他者の言葉や態度は、私を罰するものでも、称賛するものでもありません。
それはただ、私の内側にあるものを静かに照らし出す、愛おしい光に過ぎないのです。
温かな愛を向けられたとき、私はその愛をどれほど素直に受け入れられるかを知る。
冷烈な批判に出会ったとき、私はどれほど自己防衛という重い鎧に囚われているかを知る。
誰かの無関心や沈黙に触れたとき、自分が今、何を求めているのかを知る。
他者とは常に、私が「今、ここ」でどのような景色を見ているかを教えてくれる、大いなる顕れだったのです。
I AMの視点に立つとき、他者は「自分とは切り離された別の存在」ではありません。
私たちは同じ一つの水から生まれた、表面の泡のようなもの。
深淵も表面の泡も、すべては「一つの水」という同じ神聖さを生きています。
ですから、鏡に映る相手の姿を変えようと、修正や改善を試みる必要は一度もなかったのです。
ただ、そこに映し出されたものを静かに観ること。
それこそが、この瞬間に開かれる真実のすべてです。
私自身、あるときから「他者を説得する」という重い努力を手放しました。
代わりに、相手の姿がどうであれ、「その人の奥にある光をただ信じる」ことを選んだのです。
すると、他者との関わりは、正しさを証明し合う戦いの場から、ただ一つの愛が響き合う共鳴の場へと変わっていきました。
相手の反応がどうであれ、その瞬間に立ち現れている出来事のすべてに、大いなる愛の調和が働いていると無言で確信する。
それだけで、世界は一瞬で優しい場所に変わります。
他者という鏡は、時に優しく、時に厳しい顔をして私たちの前に現れます。
でも、その厳しさの奥にも、私たちが「真に何者であるか」を思い出させるための、無条件の愛がいつも潜んでいます。
それは、「外側から学ばなければならない」という不完全さへの罰ではなく、「あなたはどんな場面からでも、いつでも愛に還ることができる」という、一なる自己からの絶対的な信頼の表れなのです。
だから私は今日も、出会う人たちを「私を評価する相手」としてではなく、「共に一つの光を表現し合う存在」として、この静けさの中に迎え入れています。
そして、自らにこう問いかけるのです。
「今、この人は何を正そうとしているのか」ではなく、「今、この出来事を通して、私の内にある何の輝きが照らされているのだろうか」と。
そのシンプルな眼差しこそが、他者という鏡を抱きしめ、不完全さのままで在る自由を祝福する、最初の一歩なのです。
── 凛風リュウジ
出会うすべての鏡の中に、ただ一つの光を見出すあなたへ

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