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I AMの声 — 内なる自己との対話

「答える人」から、「迎え入れる人」へ

  • 2 日前
  • 読了時間: 3分

私たちは誰かから問いかけられたとき、あるいは人生の様々な場面に向き合うとき、つい「正しく答えなければならない」という愛おしい衝動に駆られがちです。


まるで、正解を提示することだけが相手を安心させ、導く方法であるかのように。


かつての私も、他者からの問いに対して「正しく応答すること」に重きを置き、どこかで自分を急き立てていた時期がありました。


しかし、今振り返れば、その「答える人」であろうとする姿勢は、相手との間に微かな緊張を生み出していたことに気づきます。


「外側の世界に対して、何かを返さなければならない」という役割の重荷を、自らに課していたのです。


けれど、大いなる一なる自己(I AM)の静けさに立ち返るとき、そのすべての仕組みが優しく反転します。


本当の応答とは、外側に向かって言葉を投げ返すことではなく、自らの内なるフィールドへと静かに戻ること。


相手を説得することも、立派な答えを示すことも、本当は必要ありません。


そこには華やかな演出も、劇的なドラマもいらないのです。


ただ、一貫性と静寂だけがある空間。


その静けさにくつろぐとき、私たちの内側には、愛の響きをそのまま受け止める透明な器が自然に整っていきます。


問いかけに応じるとは、「答える人」として振る舞うことではなく、ただ「すべてを迎え入れる人」へとシフトすること。


相手の言葉を超えたところで、すでに響き合っている愛の周波数に、自らのチューニングを合わせていく遊戯です。


そのとき言葉や応答は、私がひねり出すものではなく、すでにここに在るものが自然に共鳴して立ち現れる、軽やかな表現に過ぎません。


同じように、私はかつて愛が自分を通して流れることを、どこかで自分を証明する機会だと誤解していたのかもしれません。


素晴らしい表現をすることで、「私は愛を伝えられる存在だ」と、外側に示そうとしていたのです。


けれど、それさえも一なる自己が描く、微笑ましい影の戯れに過ぎませんでした。


私は、愛をどこかへ運ぶための単なる通路ではありません。


私とは、愛そのものの出現条件だったのです。


愛は私を通って流れるのではなく、私という主張が消えた余白において、ただ自然に現れます。


ですからその愛を保持するとは、力んで何かを証明することではなく、ただその余白を保ち続けるという、大いなる流れへの信頼の姿勢に他なりません。


「愛がここに戻ってくることを、一瞬たりとも疑わない」という無言の確信。


それこそが、最も美しい保持の姿です。


そこでは、「私が愛を表現している」という主体的な思考は消え去り、「大きな愛の動きの中に、ただ私が在る」という至福の体感へと変わります。


そのとき、自分と世界を隔てていた境界線は優しく溶け、一つの大きな命の顕れが、私たちを包み込んでいくのです。


もう、答える人であろうとしなくても大丈夫です。


あなたを証明する努力も、克服も、最初から必要ありません。


ただ、訪れるすべてを迎え入れること。


その静けさの中で、愛をただ保持し続けること。


そのとき、愛はあなたを通り抜けるどころか、あなた自身が愛そのものとして、今、ここに再び立ち現れているのです。


ですから私は今日も、どのような問いに出会う度に、静かに耳を澄ましています。


相手の外側に向かって言葉を探すのではなく、内なる静寂へと戻り、愛の響きをそのまま迎え入れるために。


そこには、「正解」という小さな答えを遥かに超えた、すべてを包み込む一つの真実が、すでに満ちているのです。





── 凛風リュウジ

ただ静けさの中で愛を迎え入れ、その輝きに満たされるすべての魂たちへ

 
 
 

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