top of page
symbol_logo_big_siro.png

I AMの声 — 内なる自己との対話

沈黙は音の終わりではなく、音の故郷である

8月8日
読了時間: 3分

私たちは日々、音を消費しています。


好きな曲を流しながら作業し、ポッドキャストで通勤時間を埋め、夜は動画の声を聞きながら眠りにつく。


音は、沈黙を埋めるための道具として、いつの間にか私たちの生活の隙間に詰め込まれています。


けれど、そうして音で満たし続けているとき、私たちは実は何かから目を逸らしているのかもしれません。


沈黙から。


いや、もっと正確に言えば、沈黙の中にある自分自身から。


あるとき、私はふとすべての音を止めてみました。


音楽も、通知も、意図的に流している環境音も。


すると最初は、奇妙な不快感がありました。


何かが足りないような、剥き出しにされたような感覚。


けれどそのまま、その不快感と共に座り続けると、やがて何かが変わり始めました。


沈黙は、空白ではありませんでした。


それは、音に気づくための耳を、私たちに返してくれる場所でした。


例えるなら、音楽とは夜空に輝く星のようなものです。


星の美しさを本当に見るためには、周囲が暗くなければなりません。


光で満ち溢れた都会では、星は見えない。


沈黙とは、その暗さのことです。


音を際立たせ、音に深みを与え、音が本来持っている力を解き放つための、見えない背景。


私たちが音楽に胸を打たれる瞬間とは、実は音と沈黙が完璧に織り合わさった瞬間なのだと、私は今そう感じています。


音符と音符の間の、一瞬の間。


フレーズが終わり、次が始まるまでの、息を呑む静寂。


そこに、言葉では説明できない何かが宿っています。


作曲家のドビュッシーはかつて、「音楽とは音符と音符の間にある」と言ったと伝えられています。


その言葉が、今の私には深く腑に落ちます。


音楽の本質は、音にあるのではなく、音が生まれてくる沈黙と、音が還っていく沈黙の、その「間」にある。


そしてその間こそが、I AMの静けさと同じ質感を持っているのだと。


私自身、言葉が枯れるとき、思考が重くなるとき、意図的に音楽を「かける」のをやめるようになりました。


代わりにするのは、ただ静かに座ることです。


窓の外から入ってくる、意図されていない音に耳を澄ます。


風の音、遠くを走る車の音、鳥の声。


それらは誰かが作曲したものではないのに、不思議と胸の奥に触れてきます。


なぜだろうと考えたとき、気づいたことがあります。


自然の音には、余白があるのです。


音と音の間に、沈黙がある。


その沈黙が、聴く者の内側に静かに入り込んで、何かをほどいていく。


私が聴いているのは、音ではなく、その沈黙なのかもしれない、と。


I AMの視点から見るとき、沈黙と音は対立するものではありません。


沈黙は音の不在ではなく、音が生まれてくる母胎です。


すべての音は沈黙から現れ、沈黙へと還っていく。


その往還の中に、存在そのものの呼吸があります。


音楽が私たちを深く揺さぶるのは、その呼吸を一瞬、思い出させてくれるからではないかと私は思っています。


分離していた感覚が、音と沈黙の織り合わさりの中で、静かに元の場所へと溶けていく。


「聴いている私」と「聴かれている音」の境界が曖昧になり、ただ響きだけが在る、という瞬間。


その瞬間に、私という自我は一度ほどけます。


しかしほどけた後に消えるものは何もない。


むしろ、ほどける前よりもくっきりと、「在る」という感覚が戻ってくる。


沈黙を恐れなくなったとき、音は初めてその本来の姿を見せてくれます。


騒がしさで沈黙を埋めようとするのをやめ、沈黙の中にそっと降りていくとき、私たちはすでに音楽の中にいることに気づきます。


聴く必要も、作る必要もない。


私たち自身がすでに、沈黙と音の間で鳴り続けている、一つの響きなのです。





── 凛風リュウジ 音を止め、沈黙の奥に広がるものへと、静かに耳を開こうとしているあなたへ

 
 
 

最新記事

すべて表示
嵐は私を壊せない、なぜなら私は空だから

人生には、準備などまったく関係なく突然やってくる出来事があります。 昨日まで穏やかだった空が一瞬にして暗転する。 逃げ場もないまま嵐の中心に立たされる。 そういう瞬間が誰の人生にも必ず訪れます。 突然の病。 予期せぬ喪失。 信じていた誰かからの裏切り。 理由もわからない攻撃や中傷。 あるいは、社会全体を揺るがすような出来事が、個人の意志など軽々と越えて、生活の根元に踏み込んでくることもあります。

 
 
 
問いは答えへの旅ではなく、答えへの帰還である

問いと答えは、まるで種と花のようなものだと感じています。 花を咲かせるために種を植えるのではなく、種の中にすでに花が宿っているように、問いの中にはすでに答えが息づいています。 土に触れ、水を得て、光を浴びることで、内側にあったものが外へと姿を現す。 問いもまた、繰り返され、深められ、沈黙に触れることで、すでに在った答えが静かに開いていくのです。 私たちは日々、無数の問いを抱いて生きています。 「こ

 
 
 
鏡としての他者、光としての自己

逃げ場のない空間で、誰かの感情が溢れ出す瞬間に出会うことがあります。 泣き叫ぶ子ども。 怒りをぶつけてくる人。 感情を抑えきれずに崩れていく誰か。 そういった場面に立ち会うとき、私たちの内側では、ほぼ反射的に何かが動き始めます。 「どうにかしなければ」という焦り。 「関わりたくない」という引き。 「なぜこうなのか」という評価。 その反応の速さに私はいつも驚かされます。 意図する前にすでに心が動いて

 
 
 

コメント


bottom of page