沈黙は音の終わりではなく、音の故郷である
- 6 時間前
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私たちは日々、音を消費しています。
好きな曲を流しながら作業し、ポッドキャストで通勤時間を埋め、夜は動画の声を聞きながら眠りにつく。
音は、沈黙を埋めるための道具として、いつの間にか私たちの生活の隙間に詰め込まれています。
けれど、そうして音で満たし続けているとき、私たちは実は何かから目を逸らしているのかもしれません。
沈黙から。
いや、もっと正確に言えば、沈黙の中にある自分自身から。
あるとき、私はふとすべての音を止めてみました。
音楽も、通知も、意図的に流している環境音も。
すると最初は、奇妙な不快感がありました。
何かが足りないような、剥き出しにされたような感覚。
けれどそのまま、その不快感と共に座り続けると、やがて何かが変わり始めました。
沈黙は、空白ではありませんでした。
それは、音に気づくための耳を、私たちに返してくれる場所でした。
例えるなら、音楽とは夜空に輝く星のようなものです。
星の美しさを本当に見るためには、周囲が暗くなければなりません。
光で満ち溢れた都会では、星は見えない。
沈黙とは、その暗さのことです。
音を際立たせ、音に深みを与え、音が本来持っている力を解き放つための、見えない背景。
私たちが音楽に胸を打たれる瞬間とは、実は音と沈黙が完璧に織り合わさった瞬間なのだと、私は今そう感じています。
音符と音符の間の、一瞬の間。
フレーズが終わり、次が始まるまでの、息を呑む静寂。
そこに、言葉では説明できない何かが宿っています。
作曲家のドビュッシーはかつて、「音楽とは音符と音符の間にある」と言ったと伝えられています。
その言葉が、今の私には深く腑に落ちます。
音楽の本質は、音にあるのではなく、音が生まれてくる沈黙と、音が還っていく沈黙の、その「間」にある。
そしてその間こそが、I AMの静けさと同じ質感を持っているのだと。
私自身、言葉が枯れるとき、思考が重くなるとき、意図的に音楽を「かける」のをやめるようになりました。
代わりにするのは、ただ静かに座ることです。
窓の外から入ってくる、意図されていない音に耳を澄ます。
風の音、遠くを走る車の音、鳥の声。
それらは誰かが作曲したものではないのに、不思議と胸の奥に触れてきます。
なぜだろうと考えたとき、気づいたことがあります。
自然の音には、余白があるのです。
音と音の間に、沈黙がある。
その沈黙が、聴く者の内側に静かに入り込んで、何かをほどいていく。
私が聴いているのは、音ではなく、その沈黙なのかもしれない、と。
I AMの視点から見るとき、沈黙と音は対立するものではありません。
沈黙は音の不在ではなく、音が生まれてくる母胎です。
すべての音は沈黙から現れ、沈黙へと還っていく。
その往還の中に、存在そのものの呼吸があります。
音楽が私たちを深く揺さぶるのは、その呼吸を一瞬、思い出させてくれるからではないかと私は思っています。
分離していた感覚が、音と沈黙の織り合わさりの中で、静かに元の場所へと溶けていく。
「聴いている私」と「聴かれている音」の境界が曖昧になり、ただ響きだけが在る、という瞬間。
その瞬間に、私という自我は一度ほどけます。
しかしほどけた後に消えるものは何もない。
むしろ、ほどける前よりもくっきりと、「在る」という感覚が戻ってくる。
沈黙を恐れなくなったとき、音は初めてその本来の姿を見せてくれます。
騒がしさで沈黙を埋めようとするのをやめ、沈黙の中にそっと降りていくとき、私たちはすでに音楽の中にいることに気づきます。
聴く必要も、作る必要もない。
私たち自身がすでに、沈黙と音の間で鳴り続けている、一つの響きなのです。
── 凛風リュウジ 音を止め、沈黙の奥に広がるものへと、静かに耳を開こうとしているあなたへ

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