過去は、あなたの後ろではなく、今の内側にある
過去は、すでに確定して、私たちの後ろに積み上がっているもの。私たちは、そう当たり前のように思っています。けれど、数年前、旧友と修学旅行の話になったとき、天気の記憶が食い違ったことがありました。私は雨だったと覚えていて、友人は快晴だったと言う。どちらにも、その光景がはっきりと「見えて」いるのです。
確定しているはずの過去が、思い出す人ごとに違う。だとすれば、過去とは、本当に「後ろ」にあるものなのでしょうか。それとも、今、思い出すたびに組み立てられているものなのでしょうか。
この記事では、記憶の研究、脳科学、古代の哲学者、道元、そして心の回復力と許しの心理学という入口から、「過去はどこにあるのか」という問いをたどっていきたいと思います。
確信は、正確さの証拠にならない
1986年1月、スペースシャトル「チャレンジャー号」が、打ち上げの直後に爆発しました。翌日、心理学者ウルリック・ナイサーらは、大学生たちに、その知らせをいつ、どこで、誰から、どのように聞いたかを書き留めてもらいます。そして二年半後、同じ学生たちに、もう一度同じことを尋ねました。
結果は意外なものでした。多くの学生の記憶が、最初に書いた内容と食い違っていたのです。およそ四分の一の学生は、主要な点のほとんどが違っていたと報告されています。それなのに、本人たちは、自分の記憶の鮮明さに強い自信を持っていました。手元にある当時の自分の筆跡を見せられても、「今の記憶のほうが正しい」と感じた学生もいたと伝えられています。
鮮明さや確信は、正確さの保証にはならない。この研究は、そのことを静かに教えています。私たちは記憶を、倉庫にしまわれた記録のように取り出していると感じています。けれど実際には、思い出すたびに、残っている手がかりから、その場面が組み立て直されているのです。
私自身、旧友との天気の食い違いを思い返すたびに、どちらが間違っていたのかではなく、どちらの記憶も「今」作られたものなのだ、と考えるようになりました。
過去を思い出す力は、未来を想像する力と同じ
2007年、ロンドン大学の研究チームは、脳の海馬を損傷して、過去の出来事を思い出せなくなった患者たちに、ある課題を出しました。「白い砂浜に寝そべっていると想像してください」というように、まだ経験していない場面を、思い描いてもらうのです。
健康な人たちは、波の音や砂の感触まで含めた、豊かな情景を語りました。ところが患者たちは、砂や空といった個々の要素を並べることはできても、それらをまとまった一つの場面として組み立てることが難しかったと報告されています。
この結果から、過去を思い出す働きと、未来や架空の場面を想像する働きは、脳の同じ仕組みに支えられているのではないか、と考えられるようになりました。心理学者ダニエル・シャクターらは、これを「構成的エピソードシミュレーション仮説」と呼んでいます。
つまり、記憶とは、過去を再生する装置というより、今この瞬間に、過去らしい場面を組み立てる能力の一つなのかもしれません。過去の記憶と未来の想像は、どちらも、今、同じ素材から作られているのです。
過去は、今の中にしかない
四世紀から五世紀にかけて生きた哲学者・神学者のアウグスティヌスは、主著『告白』の第十一巻で、「時間とは何か」を問いました。過去はすでに存在しない。未来はまだ存在しない。ならば、私たちが語る「過去」や「未来」は、いったいどこにあるのか。彼の答えは、どちらも現在の心の中にある、というものでした。過去とは「現在における記憶」、未来とは「現在における期待」にほかならず、時間はすべて、現在の心の働きとして存在する、と考えたのです。
日本では、道元がこの問いを、別の角度から見つめました。『正法眼蔵』の「現成公案」に、薪と灰のたとえがあります。薪は燃えて灰になる。けれど、薪が「前」で灰が「後」だと、単純に考えてはいけない、と道元は言います。薪は薪として、その瞬間のすべてを生き、灰は灰として、その瞬間のすべてを生きている。前と後はあるけれど、前後は切れている。これを「前後際断(ぜんごさいだん)」といいます。
二人の言葉が示しているのは、過去が、後ろへと伸びる一本の線として、固定されて存在しているわけではない、ということです。今、思い出している。その働きの中にだけ、過去は現れます。息を吐くたびに、新しい今が訪れ、その都度、過去の見え方も更新されています。
私も、古い出来事を思い出すとき、その場面があのときのままではなく、今の気分によって色合いが変わることに気づきます。疲れている日は暗く、穏やかな日はやわらかく。同じ出来事なのに、思い出す今が変わると、過去のほうも変わるのです。
傷ついたことと、壊れたことは同じではない
コロンビア大学の心理学者ジョージ・ボナーノは、大切な人との死別や大きな災害など、深刻な出来事に直面した人々のその後の経過を、長年追ってきました。そこで繰り返し見いだされたのは、多くの人が、一時的な動揺はあっても、比較的安定した状態を保ち続けた、という事実です。ボナーノはこれを「レジリエンス(回復する力)」と呼び、それは例外的なものではなく、むしろ最もよく見られる経過の一つだと報告しています。
もちろん、深く傷つき、長く苦しむ人もいます。それは弱さではありません。出来事の重さや、そのときの状況、受けられた支えによって、経過は大きく変わります。専門的な支えが必要な場合もあります。
ここで見直してみたいのは、「傷ついた、だから壊れてしまった」という図式です。傷は確かにあった。けれど、その傷を「だから私は壊れている」と説明する物語は、出来事のあとから、付け加えられたものかもしれません。出来事そのものより、その物語のほうが強く私たちを縛っていることがあります。
傷ついたことと、壊れたことは、同じではない。そう考えてみるだけで、過去の見え方が、少しだけ変わることがあります。
許しとは、物語を握る手を緩めること
「許す」という言葉は、しばしば誤解されます。許しを研究してきた心理学者のロバート・エンライトやエヴェレット・ワーシントンらは、許しは、起きたことを正当化することでも、忘れることでも、加害者と和解することでもない、と整理しています。許さないまま、距離を置いて自分の身を守ることも、正当な選択です。
許しとは、起きたことを「なかったこと」にするのではなく、その出来事を語るたびに湧き上がる怒りや痛みを、自分の内側で握りしめ続けることを、少しずつ緩めていくことだと説明されます。許しを扱った心理学的な介入の研究では、許しの程度が高まるにつれて、抑うつや不安が軽くなる傾向が報告されています。
ただし、許しは義務ではありません。急ぐ必要もありません。「許せない自分」を責める必要もありません。許しは、ある日突然できるものではなく、物語が少しずつ書き換わっていく過程で、ふと訪れるものだと思います。
傷跡は、跡として残るかもしれません。けれど、その跡が痛みの証拠として語られるのか、「通り過ぎてきた道の印」として語られるのかは、今この瞬間の語り方によって、変わりうるのです。
まとめ:今の内側にある過去──I AMを、暮らしの中で思い出し続けるために
ここまでたどってきた道のりを、あらためて眺めてみましょう。記憶は、倉庫から取り出されるのではなく、思い出すたびに組み立て直されている。過去を思い出す働きは、未来を想像する働きと、同じ仕組みに支えられているらしい。アウグスティヌスは、過去を「現在における記憶」と呼び、道元は、前と後を切り離して、一瞬一瞬を完結したものとして見つめた。そして多くの人は、深く傷ついたあとも、壊れてなどいなかった。許しとは、物語を握る手を、少しずつ緩めていくことだった。
どの入口から見ても、行き着く先は同じです。過去は、私たちの後ろに積み上がっているのではなく、今、この瞬間の中で、組み立てられている。では、その組み立てを、今ここで見つめているものは、何でしょうか。
その問いに、名前をつけるとしたら何になるでしょうか。「私は在る(I AM)」という、何の飾りもつかない気づきだと、私は思います。どんな過去の物語が語られても、あるいは書き換えられても、「今、見ている」「今、在る」ということだけは、変わりません。物語の中の登場人物は、傷ついたり、癒えたりします。けれど、その物語を静かに見つめている「在る」そのものは、物語の一行ではありません。
今、過去という物語を、静かに見つめているのは誰でしょうか。
ここまで読んで、「過去は、今の内側にある」という一点には頷けても、ふとした瞬間に古い記憶が蘇り、気持ちが引き戻されてしまう、と感じた方もいるかもしれません。それは自然なことです。
気づきは一瞬で訪れても、それを日々の暮らしの中で繰り返し思い出せるようになるまでには、少し時間がかかります。そのあいだ、一人では見えにくい部分をそっと照らしてくれる場や伴走があることは心強い助けになることがあります。
過去の物語を、静かに見つめられる場所から
過去が、今の内側で組み立てられているのだとしたら、私たちが向かう先は、過去を消すことでも、無理に書き換えることでもありません。物語が語られているその只中で、それを見つめている静けさへ、何度でも戻れるようになること。それだけです。
とはいえ、長く親しんできた物語は、疲れたときや不安なときほど、再び大きな声で語り始めます。そのたびに、「在る」という一点へ、やさしく視点を戻してくれる場があることは、大きな支えになります。
魂の統合プログラム ── I AMとして"在る"を生きる は、そうした静かな呼びかけから生まれたプログラムです。何かを新しく手に入れるためではなく、物語を見つめている「在る」を、半年という時間をかけて暮らしの実感として思い出していくための場です。
なお、過去の出来事の記憶が日常生活に大きく影響しているときは、医療機関やカウンセリングなど、専門的な支えも頼ってください。
気になる方は、よろしければ覗いてみてください。


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