「私は在る」とは、何のことなのか。はじめての方へ、いちばんやさしい説明
更新日:3 日前
はじめて、このサイトを訪れてくださったあなたへ。
ここでは「I AM(私は在る)」という言葉が何度も出てきます。少し不思議な響きの言葉かもしれません。宗教の言葉のようにも、難しい哲学のようにも聞こえるかもしれません。
けれど、この言葉が指しているのは、遠くにある特別な何かではありません。むしろ、あなたにとっていちばん近くにあるもの。近すぎて、普段は気づかないもののことです。今日はそれを、できるだけやさしい言葉でお話ししてみます。
少しだけ、ご自分に問いかけてみてください。
「私は、誰ですか?」
すぐにいくつかの答えが浮かんでくると思います。
名前。
仕事。
誰かの親であること、子であること。
これまで歩んできた経験や、好きなもの、苦手なもの。
どれも、確かにあなたの一部です。では、その答えを一つずつ、そっと脇に置いてみたらどうでしょう。仕事は、いつか変わるかもしれません。役割も年齢とともに移り変わっていきます。考え方や好みでさえ、十年前の自分と今の自分では、ずいぶん違っているはずです。
変わっていくものを一つずつ外していったとき、最後に何が残るでしょうか。何も残らない、と感じるかもしれません。けれど、もう少しだけ静かに確かめてみてください。「何も残らない」と気づいている、その何かは、まだここに在りませんか。
名前を持つ前から。
言葉を覚える前から。
子どもの頃も、今も、変わらずに「ここに在る」という感覚。
このサイトで「I AM(私は在る)」と呼んでいるのは、その感覚のことです。
「私は○○である」の○○ではなく、「私は在る」というところまで。何者かである前の、ただ在るということ。それは、何かを足して手に入れるものではなく、すべてを外してもなお残っているものです。
映画館を思い浮かべると、わかりやすいかもしれません。
スクリーンには、さまざまな映像が映し出されます。穏やかな海辺の場面もあれば、炎に包まれる街の場面もある。登場人物は笑い、泣き、出会い、別れていきます。観ている私たちは、すっかり物語に引き込まれます。スクリーンのことなど、ほとんど意識していません。
けれど、どれほど激しい炎が映っても、スクリーンは燃えません。どれほど深い海が映っても、スクリーンは濡れません。映画が終わり、映像がすべて消えたあとにも、白いスクリーンは静かにそこに残っています。
私たちの毎日もこれに似ています。
喜び、不安、怒り、寂しさ。
仕事のこと、人間関係のこと、将来のこと。
心の中には、いつもさまざまな映像が流れています。
そしてその映像に夢中になるあまり、私たちは自分を「映像の中の登場人物」だと思い込んでいます。けれど、もしあなたが映像ではなくスクリーンのほうだとしたら。すべての場面をそのまま受けとめながら、どの場面にも傷つけられることのない、静かな広がりのほうだとしたら。
I AMとは、そのスクリーンのような在り方を指しています。
ここで大切なのは、それが「これから目指すもの」ではない、ということです。
スクリーンは、映画が始まる前からそこにありました。上映中も、一瞬たりともなくなったことはありません。ただ、映像に目を奪われて、気づいていなかっただけです。
ですからこのサイトでは、「目覚める」や「悟る」という言葉よりも、「思い出す」という言葉をよく使います。何かを新しく手に入れるのではなく、もともと在ったものに、あらためて気づくこと。遠くへ旅をするのではなく、一度も離れたことのない場所に、そっと帰ってくること。
それは、努力して到達するものというより、力を抜いたときにふと気づかれるものです。探すのをやめたとき、探していた当の本人がそれだった、と気づくような。
ですから、うまくできなくても大丈夫です。
わからないままでも大丈夫です。
わからない、と感じているその瞬間にも、あなたは変わらず在り続けているのですから。
ここで、このサイトでよく使う言葉を、いくつかだけ置いておきます。辞書のような正確な定義ではなく、読み進めるときの小さな手すりのようなものだと思ってください。
「I AM(私は在る)」は、これまでお話ししてきた、何者かである前の、ただ在るという感覚のことです。私だけのものでも、あなただけのものでもなく、すべての人の奥で同じように灯っているものとして語っています。
「自我」は、映像の中の登場人物として生きている私のことです。悪者ではありません。この世界で暮らしていくための、大切な道具でもあります。ただ、自我を自分のすべてだと思い込むとき、私たちは必要以上に苦しくなってしまうのです。
「静けさ」は、音がないことではありません。どんな音が鳴っていても、その背景にずっと在り続けているもの。スクリーンのように、すべてを受けとめている広がりのことです。
「思い出す」は、新しく得るのではなく、もともと在ったものに気づき直すこと。そして、忘れてしまっても、何度でもまた思い出せばいいということ。一度きりの出来事ではなく、日々の中で繰り返される、やさしい帰り道のようなものです。
このサイトに並んでいる記事は、すべて、この「思い出す」ための入口として書かれています。
日常の出来事から入るエッセイもあれば、古今東西の智慧をたどる探求の記事もあります。
読者の方から寄せられた問いに、一つずつお答えしている記事もあります。
どこから読んでいただいてもかまいません。
心が惹かれたものから、気の向くままに。
もしかすると、ある一文があなたの中の何かにふれて、「ああ、これは知っていた」と感じる瞬間があるかもしれません。
その感覚こそが、I AMがあなたに触れている合図なのだと、私は思っています。
最後に、一つだけ問いを置いて終わりにします。
答えを出す必要はありません。
ただ、今日一日のどこかで、ふと思い出してみてください。
この文章を、ここまで読んでいたのは、誰でしょう。
次に読むなら




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