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I AMの声 — 内なる自己との対話

「私は在る」とは、何のことなのか。はじめての方へ、いちばんやさしい説明

2025年3月29日
読了時間: 5分

更新日:3 日前

はじめて、このサイトを訪れてくださったあなたへ。


ここでは「I AM(私は在る)」という言葉が何度も出てきます。少し不思議な響きの言葉かもしれません。宗教の言葉のようにも、難しい哲学のようにも聞こえるかもしれません。


けれど、この言葉が指しているのは、遠くにある特別な何かではありません。むしろ、あなたにとっていちばん近くにあるもの。近すぎて、普段は気づかないもののことです。今日はそれを、できるだけやさしい言葉でお話ししてみます。


少しだけ、ご自分に問いかけてみてください。


「私は、誰ですか?」


すぐにいくつかの答えが浮かんでくると思います。


名前。

仕事。

誰かの親であること、子であること。

これまで歩んできた経験や、好きなもの、苦手なもの。


どれも、確かにあなたの一部です。では、その答えを一つずつ、そっと脇に置いてみたらどうでしょう。仕事は、いつか変わるかもしれません。役割も年齢とともに移り変わっていきます。考え方や好みでさえ、十年前の自分と今の自分では、ずいぶん違っているはずです。


変わっていくものを一つずつ外していったとき、最後に何が残るでしょうか。何も残らない、と感じるかもしれません。けれど、もう少しだけ静かに確かめてみてください。「何も残らない」と気づいている、その何かは、まだここに在りませんか。


名前を持つ前から。

言葉を覚える前から。

子どもの頃も、今も、変わらずに「ここに在る」という感覚。


このサイトで「I AM(私は在る)」と呼んでいるのは、その感覚のことです。


「私は○○である」の○○ではなく、「私は在る」というところまで。何者かである前の、ただ在るということ。それは、何かを足して手に入れるものではなく、すべてを外してもなお残っているものです。


映画館を思い浮かべると、わかりやすいかもしれません。


スクリーンには、さまざまな映像が映し出されます。穏やかな海辺の場面もあれば、炎に包まれる街の場面もある。登場人物は笑い、泣き、出会い、別れていきます。観ている私たちは、すっかり物語に引き込まれます。スクリーンのことなど、ほとんど意識していません。


けれど、どれほど激しい炎が映っても、スクリーンは燃えません。どれほど深い海が映っても、スクリーンは濡れません。映画が終わり、映像がすべて消えたあとにも、白いスクリーンは静かにそこに残っています。


私たちの毎日もこれに似ています。


喜び、不安、怒り、寂しさ。

仕事のこと、人間関係のこと、将来のこと。

心の中には、いつもさまざまな映像が流れています。


そしてその映像に夢中になるあまり、私たちは自分を「映像の中の登場人物」だと思い込んでいます。けれど、もしあなたが映像ではなくスクリーンのほうだとしたら。すべての場面をそのまま受けとめながら、どの場面にも傷つけられることのない、静かな広がりのほうだとしたら。


I AMとは、そのスクリーンのような在り方を指しています。


ここで大切なのは、それが「これから目指すもの」ではない、ということです。


スクリーンは、映画が始まる前からそこにありました。上映中も、一瞬たりともなくなったことはありません。ただ、映像に目を奪われて、気づいていなかっただけです。


ですからこのサイトでは、「目覚める」や「悟る」という言葉よりも、「思い出す」という言葉をよく使います。何かを新しく手に入れるのではなく、もともと在ったものに、あらためて気づくこと。遠くへ旅をするのではなく、一度も離れたことのない場所に、そっと帰ってくること。


それは、努力して到達するものというより、力を抜いたときにふと気づかれるものです。探すのをやめたとき、探していた当の本人がそれだった、と気づくような。


ですから、うまくできなくても大丈夫です。


わからないままでも大丈夫です。


わからない、と感じているその瞬間にも、あなたは変わらず在り続けているのですから。


ここで、このサイトでよく使う言葉を、いくつかだけ置いておきます。辞書のような正確な定義ではなく、読み進めるときの小さな手すりのようなものだと思ってください。


「I AM(私は在る)」は、これまでお話ししてきた、何者かである前の、ただ在るという感覚のことです。私だけのものでも、あなただけのものでもなく、すべての人の奥で同じように灯っているものとして語っています。


「自我」は、映像の中の登場人物として生きている私のことです。悪者ではありません。この世界で暮らしていくための、大切な道具でもあります。ただ、自我を自分のすべてだと思い込むとき、私たちは必要以上に苦しくなってしまうのです。


「静けさ」は、音がないことではありません。どんな音が鳴っていても、その背景にずっと在り続けているもの。スクリーンのように、すべてを受けとめている広がりのことです。


「思い出す」は、新しく得るのではなく、もともと在ったものに気づき直すこと。そして、忘れてしまっても、何度でもまた思い出せばいいということ。一度きりの出来事ではなく、日々の中で繰り返される、やさしい帰り道のようなものです。


このサイトに並んでいる記事は、すべて、この「思い出す」ための入口として書かれています。


日常の出来事から入るエッセイもあれば、古今東西の智慧をたどる探求の記事もあります。

読者の方から寄せられた問いに、一つずつお答えしている記事もあります。


どこから読んでいただいてもかまいません。


心が惹かれたものから、気の向くままに。


もしかすると、ある一文があなたの中の何かにふれて、「ああ、これは知っていた」と感じる瞬間があるかもしれません。


その感覚こそが、I AMがあなたに触れている合図なのだと、私は思っています。


最後に、一つだけ問いを置いて終わりにします。


答えを出す必要はありません。


ただ、今日一日のどこかで、ふと思い出してみてください。


この文章を、ここまで読んでいたのは、誰でしょう。





次に読むなら



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